金継ぎのこと の続き

前回の続きです。

 

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いろいろ考えたのですが、すべて漆で行う金継ぎの場合は工程も多く、冬場の乾燥時間を考慮すると私の場合2ヶ月はかかるだろうと踏んで今回は断念。
合成樹脂で接着後、漆を塗って真鍮を蒔く、というプランで決行しました。
これだと1週間程度で仕上がるはず。
はず、だったのですが、焦って室(湿度を保つために使っている発泡スチロールの箱)の湿度を上げ過ぎて漆がシワシワに縮んでしまってやり直したりして、結局2週間以上かかってこうなりました。

 

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従兄が結婚した際、両親とともに彼の職場(レストラン)に招かれて食事をし、併設のショップで母が購入したのがこの長角皿。
とても使い勝手がいいようで、実家に帰るといつもお刺身や両親手製のつまみが盛られて出てきていました。
私にとっても思い入れのある2枚です。
やり直す前の手入れがうまくいかずあまり綺麗に仕上げられなかったけれど、まだまだ使い続けられるようにはなったのでほっとしました。

ついでに我が家の「金継ぎ待ち」箱に入っていた器も継ぎました。

 

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こちらもすべて真鍮仕上げ。
ぺかぺかし過ぎていたので、最後に透漆で拭いて少し落ち着かせました。

 

 

小さな欠けに直接漆を塗っての補修はまめにやっていたのですが、蒔絵を伴う金継ぎは2年ぶりくらいでしょうか。
久々にやってみて改めて思ったのは、基本的に向いてないな、ということ。
作業工程のなかでも、サンドペーパーや砥石で磨いたり、欠けを成形したりする地味な作業は得意なのですが、段取りと手際の良さが必要な「塗り」や「蒔き」、そして作業時間のほとんどを占める「待ち」が圧倒的に向いていない。
急がなければならないところでもたもたして失敗し、じっくり時間をかけるべきところで焦って失敗する。
毎回このパターンです。
それでも、これからも機会があればやり続けていきます。
やり続けていって、人間性を金継ぎに寄せていきたいと思っています。

何しろ、向いてない人ほど金継ぎの機会は多いですからね。

金継ぎのこと

初めて金継ぎをしたのは2014年の夏。
それまで、割れたカップや欠けたお皿はもっぱら植木鉢とその受け皿にしていました。
どんどん増える多肉を幾つか育てているのでそれはそれで役に立ったのですが、すべての食器に適性があるわけでもなく、やはり食卓で使い続けたいお気に入りだってある。

いつかやろうと押入れに装備していた金継ぎ道具セットを持ち出して、付属の薄い冊子を参考に最初に継いだのがこれです。

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ポットとそのなかで使う茶漉し。

失敗してやり直したりしながら、2ヶ月以上かけて何とか仕上げました(今考えるとよく初っ端から金を蒔いたよね、怖い怖い)。
よかった、苦労した甲斐あったと浮かれていたら無傷の蓋を落としたうえ焦ってなぜか蹴っ飛ばし…という惨事も今は笑って振り返ることができます。

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ところで金継ぎ金繕いと言いましても別に金で継ぐわけではなく、漆を接着剤に、漆と木粉や小麦粉などを混ぜて作ったペーストで欠けを補いながら修繕し、最後に塗った乾ききらない漆の上に金銀真鍮などの金属粉を振りかけて仕上げるのです。
上記蓋画像のように、別に金属粉を使わず漆で終わらせることもできます。

そして大事なこと。
漆の乾燥には高温多湿が最適です。
他の塗料などとは違い、漆は湿度がないと硬化にとても時間がかかってしまうのです。
20℃以上の気温と65%以上の湿度が必要で、つまり日本の冬は金継ぎにまるで向いていません。
向いていませんが、親に頼まれた皿の繕いを年末の帰省までに仕上げたいという事情があり、冬の金継ぎに初挑戦しました。

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ボンドでくっつけた状態だったのでまずは煮沸分解後ルーターでボンドを剥がし、準備OK。
後半へ続く。

遥かなるエレガンス (カバーの話 その2)

先日本屋さんで見かけた某雑誌のコピーが「エレガンス、ということ。」で、伸ばしかけた右手がなぜか引っ込みました。
はて、と考えて自覚したのですが、エレガンスには苦手意識があります。むしろ苦手意識しかございません。
自分がエレガンスに程遠い人間だからでしょう。

エレガンスに程遠い。
それは昔も今も同じようで、久しぶりにあった友人に「あら?なんだかエレガントな感じになったわね」などと言われたことは一度もありません。
「相変わらず貧乏くさくて安心したわ」とはよく言われますがね。

思うにエレガンスとは品であり知性であり、またそれらに裏付けられた立ち居振る舞いの美しさでありましょう。
エレガントな人は、あらゆることがきちんとしています。きちんは前提です。
急な来客があっても笑顔でどうぞとスリッパを出し、トイレも快く貸してくれることでしょう。
私のようにちょちょちょっと待ってとは言いません。
箸もナイフ&フォークも身体の一部のように使いこなし、しかし手羽先を手づかみすることも厭わない余裕もあります。
私のように年に一度の割合で誤って箸を噛み切ったりはしません。
椅子に腰かけるときと立ち上がるときに人間性が表れる、と聞いたので凝視してみましても、静かに座り、スマートに立ちあがるのです。
椅子がガガガと音を立てることはなく、よっこらどっこいしょなどとは決して言わないのです、いえ、私も言いませんけれど。

出したらしまう。
開けたら閉める。
点けたら消す。
子どものころから言われていることが未だにままならない私には、エレガンスは遥か彼方過ぎて眩しくさえないのです。

しかし、このままではいけないと、ときどきエレガンスへの一歩を踏み出そうとはしています。
去年はせめて静かに椅子に座れるよう、ダイニングチェアに靴下を履かせてみました。
椅子の脚カバーを編んだのです。
正しい一歩かどうかは知りませんが、嬉々として取り組みました。
ところが一年たって、気づいたら椅子がまた音を立てています。
気づいてからさらに半年程たってようやく確認してみたところ、擦り切れて靴下の底がなくなり、レッグウォーマーになっていました。
いけない、エレガンスが遠のく、編みなおそう。

 

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編みなおしました。

よし、この勢いであの雑誌を買ってみよう。
そう思ってさっき本屋さんへ行ったのに、なぜかハンターハンターの最新刊だけを買って帰ってきてしまいました。

おっかしいなー。

帽子所感

今年は久しぶりに自分のニット帽を編もうと思っている。
棒針で、少し太めの糸で、浅くも深くもない普通の帽子。

 

 

以前友人に頼まれてネックウォーマーを編んだことがある。
一緒にアヴリルへ行って糸を選んでもらい(茶色の超極太と極太の毛糸)、ケーブル編み、ゴム編み、かぎ針のリング編みなどを組み合わせてトゥーマッチにモコモコなネックウォーマーができた。
喜んでもらえて、編む過程も楽しかったので、同様にいろんな編み地をはぎとじして帽子にしよう!と思って後に編んだのがこれ。

 

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左の白系が自分用、右のグレー系が夫用。

ありあわせの糸を使い、途中「何か鎧兜みたい~」「むしろ謎の建造物みたい~」と変なテンションのままウッキウキで耳カバーも付けたら夫は喜んで毎冬愛用してくれているけれど、画像を見てもわかる通り私はほとんど使っていない。
なぜなら翌年からピアスを作り始めたからで、この帽子じゃピアスができないから。
耳カバー付けた私のバカ!

とほほ。誰かもらってくれませんかね。

そんなわけで今年は、ピアスも併用できる、鎧兜でも謎の建造物でもない帽子を編もうと思っているのです。
ついでに帽子とピアスのバランスについて考えてみようとも。

 

 

それはそうと夫は帽子好きだ。
キャスケットやマリンキャップ、中折れ帽に山高帽など結構な数の帽子を持っている。
持っているけれどまた買う。
出先でも買うしzozoでも買う。
似合うので、私も「いいじゃん」と言ってしまう。
むしろあっぱれと思ってしまう。
次はロシアのアレを買えばいいのに。

 

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夏に京都へ行ったとき、骨董品屋さんで夫が激安で買ったボーラーハット。
ツバのパイピングに使われているリボンが一部剥がれていて(そしてどんどん剥がれてきて)、何とかすると約束していたのでようやく直した。

 

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似たようなリボンを買い、縫い留める技術がないので横着してボンドでくっつけるという暴挙に出たが、まあこれなら使えるか、というくらいにはなった。

ボンドが乾いたので記念にちょっと被ってみる。
すごく、何というか、似合いませんでした。

私に似合う、ニット帽を編もうと思います。

猫と占いと私

私の前世は猫だそうです。

大学時代の学祭で、パソコン部だったか情報処理研究会だったかの展示で前世占いをやっていて、パソコンにぴこぴこっと入力したらレシートのような紙がぴろぴろっと出てきて前世について書いてある、それが猫でした。
以下、覚えている限り正確に記します。

「あなたの前世は雌猫です。飼い主は30代男性のサラリーマンで、あなたをとても可愛がっていました。
彼は仕事を終えて帰ってくると、冷蔵庫を開けてビールとミルクを出します。
まずあなたにミルクを与え、あなたがミルクを舐める様子を眺めながらビールを飲むのが彼の日課でした。
あなたも飼い主のことが大好きで毎日を幸せに過ごしますが、彼は好きな女性の名前であなたを呼んでいました。」

いや、これかなり正確に書けたんじゃないだろうか。
自分でもびっくり。

数人で一緒に試したのですが、それぞれ違っていて、たとえば皇帝の寵愛を受けた美男子音楽家とか、馬に蹴られて死ぬ悪徳牧師とか、どれもパンチがあってみんなで回し読みしてげらげら笑いました。

しかし。
私だけ人間じゃなかったり並行世界のような時代設定もどうかと思いますが、やたらリアリティのある描写と笑い飛ばすには切実に過ぎるその幕の引き方、しかも友人の一人が「何かわかるわー。ぽいわー」かなんか(多分ノリで)言ったりしたせいで、いまもってこうしてときどき思い出してしまいます。
それ以前も以降今までも、○○の館や●●の母に見てもらったことはなく、前世は猫、というのがほぼ唯一の私に対する占術界からの啓示です。

猫は好きですし、実家ではずっと猫を飼っていましたし、上京してからは猫の集会に招かれることが何度かありました、多分。
だからあの占いを信じているわけではないにしても、「前世は何だったと思う?」と問われれば(意外なことに結構問われる)猫だ、と答えています。

 

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ところで件の占いが正しいと仮定して、そしてそれをうっかり知ってしまった身として、こういう前世であったということは現世にどう生かせば正解なのだろう。
知らなくていいことは知らない限り幸せだ、という教訓を得ることだろうか。
人によって与えられる幸せは所詮かりそめという悟りの上に人生を構築すべし、ということだろうか。
はたまた毎日ビールを飲む男にはご用心?まさか。
偽の恋人役を全うしたことで、徳は積めたのかしら…

実際はそんなことを頭に入れて「知ってしまった身として」生活してきたわけではまるでないのですが、思い出したついでに前世占いの意義について考えたり考えなかったり。

 

とにかくいちばん言いたいのは、あの占いの文言を書いた人は入るサークルを間違えたな、ということです。