誰かに聞いてみたいと、もうずっと思っていることが幾つかある。
日常では耳にしないのに、なぜフィクションに登場するおじいちゃん(やときにおばあちゃん)は語尾に「~じゃ」「~じゃよ」を付けるのだろう。
ためになることを言うときには特に。
時代劇や日本昔ばなしならまだわかる。
一人称が「拙者」の人や機を織る鶴にも会ったことがないから、トータルで納得できる。
ファンタジー色が強ければ、たとえば「うしおととら」において東の妖怪を統べる長が「~じゃ」を連発していても、「うん、言いそう」と思える。
でも実話をもとにしたヒューマンドラマや現代小説、あまつさえなにがしかの再現VTRなどにも、唐突に「~じゃ」じいちゃんは現れるから困惑する。
つい最近も某古道具屋を舞台にした小説を読んでいて困惑したばかりだ。
祖父をはじめ、かつて袖すり合ってきたおじいちゃんたちを思い浮かべてみる。
実家のご近所さん。
高校の生物の先生。
弁当屋でアルバイトをしていたときの常連さん。
学芸員の実習で話を聞いたお寺のご住職。
マンションの管理人さん。
文房具屋さんの店主。
確実に言ってない。
世間話も老馬の智も、誰もじゃよ調で言ってない。
となるとこれはもう、アレだろう。
きっと符丁のようなものなんだろう。
語尾に「~じゃ」を付けることでそのじいちゃんがただのじいちゃんではなく、千里眼か見識高き語り部か、何にせよありがたいことを進言してくれる特別なじいちゃんですよという印なのだ。
「帰ってきたらうがいをしなさい」ではなく、「帰ってきたらうがいをするもんじゃ」と言われたらもう、そそくさとうがいしちゃうもの。
数千年に渡る人々の営みとうがいの歴史を感じずにはいられないもの。
…ということで、日本に3人にひとりはいると思われる「~じゃ」が気になって仕方ない派は納得してくれるだろうか。
私はこれからも、漠然と困惑し続けると思う。
スポーツ選手はどの段階でサインの練習を始めるのだろう。
オリンピックで金メダル取ったとき?遅すぎるな。
オリンピック出場が決まったとき?
野球なら甲子園?
「タッチ」で上杉達也が近所の人に頼まれて大量の色紙にサインをしていたのはいつだったっけ。
いや、それともあれは南ちゃんだっけ。
私は小学生のとき、スポーツ選手でも将棋の棋士でもクラスの人気者でもなかったけれど、「ある日サインを頼まれたら」「急ごしらえで書いたサインが超絶ダサかったら」という想像をして怖くなったことがある。
子どもの頃から一芸に秀でていればなおさらだろう。
だからきっと答えは「運動会でリレー選手に選ばれたとき」だと思う。
今も昔も世界中の小学生のノートには、無数の、誰にも見られることのない素敵なサインが並んでいるんだ、きっと。
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読み返してみたら、「うしおととら」で「~じゃ」を連発していたのは西の長(若い方)、つまり方言でした。納得。
ちなみに画像は本文とまったく関係ないけれど、夏の間に縫った古布の暖簾と座布団カバーです。