小中学生時代、夜6時になるとラジオを持って家のなかをウロウロしていた。
AMラジオで野球中継を聞くため、中京圏の放送がきれいに受信できる場所を探し回っていたのだ。
父も兄もドラゴンズファンだった。
当時はほぼ巨人戦しかテレビでは見られなかったので、そしてテレビ中継は7時からだったので、我が家のナイターはいつも東海ラジオスタートだった(だから今でも「イチ、サン、サン、ニ、東海ラジオ~」というジングルを歌える)。
ペナントレースを熱心に追いかけなくなって久しいが、最近でも夫(ライトな巨人ファン)に付き合ってテレビを観ていると、「肘を畳んでの内角打ちが上手いなあ」とか、「打ちも打ったり捕りも捕ったりやな」と、かつての名残のフレーズが感想となって口をついて出る。

高校時代は演劇部だった。
特に演劇をやりたかったわけではないが、最初に入った写真部の暗室がちょっと生き急いでいる先輩方のたまり場になっていたため即日辞め、友人に誘われるままの転部。
演劇にも映画にも詳しい顧問の先生と、静かで泣けるシナリオを書く部長がいて、本のこと、古い映画のこと、新劇の流れのこと、いろいろ教えてもらった。
主に音響担当で様々な音源テープを切り貼りしていたが、一度だけ大会で舞台に立ち、暗転ではける際盛大に転んだ。
20代前半頃まではよく小さな劇場でプロの舞台を観たりして、観るたびそのことを思い出して恥ずかしくなっていた。
実は今でも早口言葉はちょっと得意。

大学時代、今度こそはと写真部に(写真の話はしないが)。
文化部棟はわりと行き来が盛んで、美術部、歴研部、軽音部あたりの先輩後輩が日々出入りしていて、なかでも軽音部には友人が多く、しょっちゅう一緒にライブに行っていた。
友人のライブ、友人の友人のライブ、そしてサニーデイ・サービスやフィッシュマンズなどなどのライブ。
音楽はずっと聴き続けているが、ライブには以前ほど行かなくなった。
それでも、今も友人の演奏を聴きに行く日はとても楽しみだったり、シャッフル(未だipod classicを使ってる)で流れてきた懐かしい曲に泣きそうになったり、ということは、よくある。

 

 

かつて小沢健二が歌っていました。

「本当は分かってる
 2度と戻らない美しい日にいると

 そして静かに心は離れてゆくと」

今の私には心も縁も遠くなってしまったものであっても、だからもうこの世に必要のないものだ、とは思いません。
かつてそれを必要としていた私は、今のあなたかもしれない。
それがたとえばヨガであったり、銭湯であったり、小さな居酒屋であってもそう。
今それを必要としているあなたも、今の私だったかもしれない。
いつかの誰かの「2度と戻らない美しい日」にともにあるのは、決して生命を左右しない小さなものと、それを共有する人です。
心が離れたあとにも残ったものを見つめ、願わくば優しくありたいです。

 

 

いつ、何がぽかんと失われてしまってもおかしくない日々のさなか、友人と話していて思ったことでした。
ひとつもそんな話はしてないんですけどね、なんとなく。