どうでもいいこと

流したり 洗ったり

先日「あ、そろそろトイレットペーパー買わなきゃ」と思い、続けてふと「トイレットペーパーって長いな」と思いました。
いや、トイレットペーパーそのものが長いのは当たり前なのですが、単語として。

ティッシュペーパーはティッシュ、トレーシングペーパーはトレペ、トイプードルでさえトイプーという略語が一般化しているのに、トイレットペーパーだけは頑ななまでに正確にトイレットペーパーです。
緊急性は他と比ぶべくもないのに。

トイレットペーパーを「トイパー」とか「トイペ」と略したこと、あるいは略した人に会ったことあるかな?としばし考えてみたけれど、ありませんでした。
もちろん略している人だって少なからずいらっしゃるでしょう。
そして例えば製紙業界やドラッグストア界隈には、専門の(簡略化された)呼び名だってあるでしょう。
でもそれが、誰もが知っている共通用語になっていないのはなぜなのか。

というようなことを考えていて、私は答えを見つけました。

人は本当に切実なとき、ただそれを「紙」と呼ぶのです。
そしてその状況はできるだけ避けたい/忘れたい類のものであるため、通常は呑気に「トイレットペーパー」と呼びたいのです。きっと。

 

 

長く長く続いたマンションの修繕工事がそろそろ終わりそうでホッとしています。
ガラス一枚を隔ててすぐそこに人がいるというのは、ずっと家で作業をしている身としてはなかなか気が休まらないものでした(最終的には慣れてしまって、お互い仕事しながらオリンピックも一緒に観戦しているような状態でしたが)。

特に騒音が物凄いときなどは、上記のような本当にどうでもいいことを考えてみたり、アクリルたわしを編みためたりしながら時間をやり過ごしていました。

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以前も似たようなパターンでトイレと台所をセットに何か書いたような気もしますが、仕方がないですね。
生活とはそういうものです。

さてこのリストバンド型アクリルたわしのいいところは、まあ特にはないのですが、とにかく何も考えずともすぐ編めます。
そして布巾と一緒に洗って干して使えるので、なんとなく衛生的な気がします。
あと自立します。

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某OIOI風の写真も撮れます。

接着剤の乾くまでなにも出来ない時間のように

たとえば銀座に出るついでがあって、せっかくなのであそこにもあそこにも行こうなどとわくわくしつつ(手持ちのなかでは)銀座的な服を着て家を出る。
どんな順番でどこをまわってどのタイミングでお茶をして、なんてことを話し合いながら、道中見かけたよさげな店でお昼を食べる。
美味しいねえ。
全然知らなかったけれど、いいとこ見つけてラッキーだったねえ。

と、そんなときに限って、服にシミをつくってしまいます。
こういう中身の人間として何十年も生きてきているのに、いまだに。

もう帰りたい…と思いつつも済ませなければいけない用事もあるので引き返すわけにはいかず、トートバッグを胸元に抱えたりしてごまかしながら、銀座をゆく。
すれ違う人はみな背筋がしゃんと伸びている。
お店で店員さんに声をかけられ「シャツにシミのある私ごときがごめんなさい」とひるんでしまう。
休憩したベンチで隣り合ったハイファッションガイの膝には551の紙袋があって、懐かしいな、近くで催事があったのかな、でも豚まんなんて絶対シミになる食べ物だよな。

もう何を見てもシミを思い出す、この時間。
銀座で服にシミができてしまったあとのこの時間は、誰にもなんとも思われていないことや夫が右でけたけた笑っていることとは関係なく、シミとセットでやってくる。

別に銀座じゃなくてもいいんですけどね、先週末はたまたま銀座だったんですよ。
ランチはラーメンでもカレーうどんでも豚まんでもなく、タイ料理でした。
美味しかったです。
ドーバーで見たsacaiのセーター、可愛かったです。

そんな自分ではどうしようもない、通り過ぎるのを待つしかないような時間について、最近よく思いをめぐらせています。
治療後歯の痛みが消えるまでの時間。
切りすぎた前髪が伸びるまでの時間。
シミのある服で家に帰るまでの時間。
みんなに、日常的にあるこんな時間が、つつがなく、できればあっけなく、過ぎていきますように。

 

タイトルは長島有「問いのない答え」より。
まさに接着剤を乾かしているあいだに読み始めたからか、この一節が気になって気になって、先がまったく頭に入ってこなくなりました。

 

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その人らしさは余分なものからにじみでる

というようなことを、木皿泉氏が仰っていました。同感です。

 

ところで家族や友人と買い物をしているとき、「なんでそんなの買うの?」と言われ、答えに詰まってしまうことはありますか?
ありますよね。
きっとあると思います。

他人の共感を得づらい買い物といっても、やたら漫画を買うとか、新発売の歯磨き粉はとりあえず買うとか、そういう話ではありません。
どちらも(多分だけど)使い道はひとつ、でもここで取り上げたいのは使途不明物のことです。
三度の飯を抜いたとしても東奔西走買い集める突き抜けた蒐集家さんも――尊敬していますが――、ちょっと違います。
コレクション目的ではなく、愛でるためでもなく、使いたいのはやまやまだけれど今は何に使うのか皆目わからない、でも買っちゃう、そんな買い物の話です。

使う当てはないのにボタン売り場に吸い込まれて出てこない人。
日曜大工はしなくてもハンズで工具を吟味してしまう人。

同じように私にもつい買ってしまう使途不明物があります。
それは容れ物。
何を容れるのかわからない、〈何か容れ〉です。

 

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作業机周りで目についただけでこんな感じ。
ひとつひとつは小さいし、ほとんどが数百円のものなので別に反省も後悔もしていません。
ただ、「これはなぜだろう?」とふと疑問に思ったのです。

こまごましたものは沢山ある家なので、ありがたいことに使い道はちょこちょこ見つかります。
例えばハンコ。
同じハンコ同士でも、年一で使うもの(年賀状用ハンコ)と週一で使うもの(屋号ハンコ)を一緒に収納するのは具合が悪いときもあります。
出し入れが便利な場所にはよく使うものしか置いておきたくないのが日本の住宅事情だったりしますから。
で、よく使うものを〈何か容れ〉に入れれば、それは立派な屋号ハンコ容れです。
我ながらだいぶ言い訳くさいですが。

でも、必要じゃないものを買うのは贅沢で楽しい。
〈何か容れ〉には何を容れるか考える楽しみも、ピッタリなものが見つかったときの「おお!」もついてくる。
だからやめられないんだと思います。
そこから何がにじみでているのかはわかりませんが。

結婚して驚いたことのひとつが、夫もこの〈何か容れ〉を買う人だったということ。
そして人間としての器の違いなのか何なのか、ひとつひとつが大きい。
同じ円筒形の缶でも、私が買ったものが4㎝×6㎝、彼のは30㎝×45㎝もある!
一緒に買い物にいくと、お互いに「それ、何容れ?」と思いつつ、人のことは言えない者同士、「いいんじゃない?」ということになる。
そうして〈何か容れ〉が増えていくのです。

最近骨董市で夫が買った〈何か容れ〉。

 

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まさかの宝箱。

幅40㎝くらい、南京錠を付けられるわりと本気の宝箱です。
なんという夢のある〈何か容れ〉。
部屋の片隅にあるこの宝箱が目に入るたび、ちょっと笑ってしまいます。

何を容れようかな。
〈何か容れ〉容れはどうかな。

ささやか再考

『ささやかだけれど、役にたつこと』というレイモンド・カーヴァーの短編小説があります。
ある家族と、パン屋のおじさんの物語。

原題は『A Small, Good Thing』。
好きな短編で、接客業をしていた頃は常に頭の隅に置いていたくらいです。
想像力とプライド、という点において。

それはそうなんですけれど、同時にずっとモヤモヤしていたことがあり、その話を書きたいと思います。

 

※以下ネタバレ&雰囲気バレ注意、です。

個人的に『ささやかだけれど、役にたつこと』と言われてイメージするのは、たとえばこういうことです。

・台所のシンク下にゴーグルを吊るしておけば、泣きながら玉ねぎを切らずにすむ。

・トンカチを2本持っていれば、釘を打っているときに万が一トンカチの頭がすっぽ抜けて飛んでいっても、そのトンカチを直すためのトンカチを買いに行く必要がない。

どちらも私の体験談で、そんな小説を読みたい人がいるかどうかはさておき、『ささやか』には「いやね、あらためて言うほど大したことじゃないんですけどね」感が大事なんですよ、あくまで個人的にですけども。

お読みになった方はご存知のとおり、カーヴァ―の短編はまったくそんな話ではありません。
そんな話だと思って読み進むと、胃がきりきりします。
少なくとも私は初読できりきりしました。
そう、この憤懣やるかたないモヤモヤは一言で言えば「ささやか要素、ゼロやん」ということです。

実際の内容は割愛しますが、象徴的な最後のシーン。
暗闇のさなかにあって、——それがパンであれケーキとコーヒーであれカツ丼であれ——誰かと何かを食べて美味しいと思えて救われるのは、この世でもっとも大切なことの部類に入ると思うのです。
今日もどこかで美味しいものを作っているすべての人に感謝したいほどに。
それはちっともささやかじゃない、と15年以上も憤慨し続けているほどに。

ちなみに、このブログにはそんな大切な話は出てきません。
本当にちっさいことしか書きませんよ、という念を押したくて、サブタイトルが言い訳がましくなってしまったこともついでに告白しておきます。

 

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嘘をついてごめんなさい。
本当は4本ありました。

あえて言うなら愛情です

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大学で知り合った友人は、当時からべらぼうに料理が上手だった。
ときどき部屋でご馳走になったが、料理中、火の通り具合や塩加減は匂いでわかると言っていた。
その頃の私はというと、久々に米櫃(にしていた煎餅缶)を開けると無数の羽虫が飛び立ったり、久々に炊飯器を開けると腐海が誕生していたり。
そんなありさまだったので、素直に感服しながらも「毎日やってれば、私にもわかるのかな」とぼんやり思っていた。

いやいや。
そんなわけがあるかと。

匂いですよ?
火の通りはまだしも塩加減ですよ?
邪悪な何かに魂を売るとかしないと無理無理、私の場合。
毎日料理をするようになって一ヶ月ほどで、早々に諦めがついたように思います。

揚げ物はできるだけやりたくないし味の決定もその辺にいる人に任せたい。
鍋やフライパンを前にどことなく卑屈なこころもちで中の様子をうかがう一方、千切りとかみじん切りとか、皮剥き、筋取り、その手の作業は大好きでした。元来単純作業向きなのでしょうね。

なめろう、つみれ、鶏団子。
好きな作業目白押しのトップ3です。
つみれと鶏団子、あとは誰か茹でてください。

いつだったかその友人が我が家でご飯を食べながら、「下ごしらえが丁寧で美味しい」と褒めてくれたことがあって、なんだかすごく嬉しかったです。

料理は匂いと下ごしらえが大事、ということではなく、「ああ、魂売らなくてよかった」という話でした。

 

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包丁にくっついたネギの形から生まれた“KOGUCHI”。