リース展

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12月9日から17日まで開催される、かまわぬ浅草店さんの4周年記念イベント『リース展』に参加します。
いろいろな素材を扱う作家さんたちのリースが会場に集います。
浅草へお越しの際は、ぜひその景色を見にいらしてください。

『リース展』
2017/12/9(土)‐12/17(日)
10:30-19:00
かまわぬ浅草店2F

詳細はかまわぬさんのHPをご覧ください。

 

 

正直に言いますと、私にとってリースはあまりなじみのない存在でした。
いつからか、特にこの季節はドアにリースを吊るしているおうちを見かけることが多くなりましたし、お花屋さんやショップでも素敵だなあと思ったりはしていたのですが、自分で作ったこと、家に飾ったことはありませんでした。

みんなは人生のどのタイミングでどんなふうにリースと出会うのだろう。
私にとってそのタイミングは、この『リース展』でした。

ところで、リースの意味について少しだけ。
リースの環は永遠の象徴で、それは終わりのない神の愛や長寿を表しています。
そして玄関に飾る理由は、魔除けと、ドアを開けて家を出た人が無事にまたドアを開けて帰ってくる、そのくりかえしがずっと続きますように、という祈りの意味もあるそうです。

今回声をかけていただいて、まったく知らなかったリースについて少し考えたり調べたりして、ああ、これは作りたい、と思いました。
手仕事のもとのもと、それもきっと家族の健康や幸せへの祈りだろうから。
どの国でもいつの時代でも、誰かが誰かの笑顔を思って手を動かしている。
リースがそんな風景のシンボルのようにも思えたのです。

薪を割る父親と、庭で松ぼっくりを拾い集める子どもたち。
台所では料理をしながらその松ぼっくりとハーブでリースを作るフライパンマザー。
そんな想像をするだけで、幸せな気持ちになります。

 

 

tagottoは、さまざまな糸をさまざまに使ったリースをいくつか出品します。
毛糸、綿糸、麻糸、そしていつも使っている絹糸も。
なかには母や祖母から受け継いだ糸もありますし、先月の手紡ぎ糸も使っています。
リース初心者ではありますが、この糸も、誰かの笑顔に繋がっていればと願っています。

あ、松ぼっくりとハーブは使っていません。
紛らわしくてごめんなさい。

糸車を回しながら

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個人的な秋の年中行事のひとつに、糸車の手入れがあります。
普段はしまい込んでいる糸車を拭いてワックスがけするだけですが、木の乾燥対策としても、出したついでに使ってみようという気になる度からしても、寒くなりはじめが頃合いだと決めています。
今年も手入れを済ませ、今週から久々に糸紡ぎを始めました。

 

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もこもこ太い双糸と、細い単糸。どちらも綿です。
何になるかはまた今度。

 

糸紡ぎは、編み物の次に付き合いの長い糸仕事かもしれません。
あるとき友人にスピンドルでの糸紡ぎを教えてもらい、押入れを圧迫していた古布団の中身が使える=押入れが空く、という動機でわたを引っぱり出しつつ紡いでいました。
でも糸が作れるという驚きと、親指と人差し指の間からするすると糸が生まれ出てくる感覚が癖になってしまい、スピンドルを回す右手首が腱鞘炎になってもサポーターを巻いて続けていたほど。

その後運よく熊本の古い糸車を購入することができ、インターネットと図書館と電話を駆使してパーツを作り、調整し、回し、調整し…の日々。
見かねた前述の友人が和棉収穫から布に仕立てるまでのワークショップ参加券をプレゼントしてくれて、ようやくまともに糸車を操作できるようになりました。
習うより慣れる、が基本姿勢ではありますが、習ってからは慣れるのが早かった。
以前少し触れた織作家さんと、ワークショップでお世話になった鴨川和棉農園さんがいらっしゃらなければ、挫折していたと思います。
本当にありがたいことに、それからは手首を痛めることもなくゆるやかに、へたくそながらも糸紡ぎを続けてきました。

編むにも縫うにも結ぶにも糸は必要で、糸を通してこれまでいろんな人に出会い、繋がってこられたような気がします。
私にとって糸紡ぎはそれを思い出し確認するという時間でもあるのだと、糸車のハンドルをくるくる回しながら思いました。

今紡いでいるのは、100年近く実家に眠っていた布団の打ち直し用の綿。
なんだか布団の中身ばかり紡いでいるようです。

木の実と少年と

上京して驚いたことのひとつは、人の多さよりも公園の多さでした。
人口比や他国と比べて云々ということはあるでしょうが、山と湖に挟まれた田舎の、――遊具は学校とお寺と公民館にしかなく、公園と呼ばれているのはちょっとした空き地だけだった――地元から来た私には衝撃でした。
都内で何度か引っ越しましたが、どの街も徒歩圏内に複数の公園がありました。
しかも、猫が集会に使いやすそうなちんまりした公園、高校生が学校帰りに自転車を止めてベンチで話し込んだりギターを弾くような中くらいの公園、子連れママさんたちとラグビー部とトップブリーダーが平和的に共存する大きく立派な公園、それぞれが。
さらに東京(だけではないと思いますが)の公園にはさまざまな樹木があり、それぞれが名札をぶら下げていたりして、かつて梅桃桜の区別すら怪しかった私にはとてもありがたいことでした。

公園は年中いいものですが、秋から初春にかけては特に楽しい。
乾き物好きなので、枯葉を眺めたり木の実や種子を拾って観察するのはしみじみ幸せです。

 

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昔実家の近所で拾った菱類、友人にもらってとても嬉しかった無患子(ムクロジ)、古道具屋さんでおまけでいただいた殻斗付きの枝、などなど。
先日雨の合間に(大きく立派な)公園で拾ったメタセコイアの実が可愛かったので、手持ちの乾き物を集めて撮ってみました。

小さな松ぼっくりのようなメタセコイア、実の先から見ると、絵に描いたバラの花のような形をしています。

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週末所用で実家に帰るので、いくつかは父へのお土産にしよう。

 

 

10年ほど前、(中くらいの)公園で草木染め用にどんぐりの帽子を拾い集めていたら、小学生男子が手伝ってくれたことがありました。5年生の2人組で、友達を待っているあいだ暇だし、楽しそう!と。
ひとりはボールを小脇に抱えたサッカー少年。もうひとりは眼鏡をかけたシュッとした男の子(「ハカセは勉強がすげーできるんだよなー!」とサッカー少年に言われていた。ハカセって!!)、染色の話や、「GIANT KILLING」面白いよねーといった話をしながら、待っていた友達がわりいわりいとやって来るまで30分ほど一緒に拾っていたら、とんでもない量のどんぐり帽が集まりました(後日羊毛が濃いグレーに染まりました)。

別れ際、お礼の気持ちにとバッグから飴ちゃん(関西人の性)を取り出して2人に差し出すと、「いえ、それは学校で禁止されているので」と両手でバツを作ってすごくきっぱり断られ、そりゃごめんと言いながら笑ってしまいました。

あの、礼儀正しく心優しい2人の少年も、もう二十歳を過ぎているはず。
達者でやっているだろうか。

秋に公園へ行くたびに思い出します。

直す現場の直し人

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7月にボロボロだったキッチンマットはあれから二度繕って、今はこうなっています。

もう大ベテラン、台所の主のような様相を呈してきました。

「直す現場」という本は確か震災の年、新宿で友人と待ち合わせしたときに時間調整で入った紀伊國屋でジャケ買いならぬタイトル買いした一冊です。
さまざまな直しのプロを訪ねる雑誌連載(初回は1981年!)をまとめたもので、手書きのイラストとさらりとした文章でとてもわかりやすく興味深い。
ジーンズやバッグの修繕、ペンキの塗り替えといったなじみ深いものから、シロアリ退治、電車整備、水族館のメンテナンスなどなど直しの内容は多岐にわたり、あちこちに社会科見学に行っているような気分になります。

OA機器の修理人が若かりしころ、修理中のファックスのなかにネジを落として発火、壊してしまったという話や、サッカー場のグリーンキーパーが語る、一夜にしてフィールドに何千本ものきのこが生えて、それを一本一本手で摘みとった話。
「直し人」のそんなエピソードもぐっときます。

久々に読み返してみて、私がこれまでお世話になってきた直し人を思い浮かべました。
包丁研ぎを教えてもらった料理人の先生。
革靴のお手入れを習った靴工房さん。
糸車の不具合時に質問したら、詳細なメールをくださった織作家さん。

共通して思い出されるイメージは、その知識や技術の出し惜しみのなさ。
直して使うということを、限られた人が行う特別な作業にしたくない、という思いをいつも感じました。

何であれ、直さずとも買い替えられるしそのメリットもわかっているからこそ、直して使えるもの、直して使いたいものはそうしたい。
惜しみなく与えてくださった尊敬してやまない直し人たちに恥じぬように。

あ、もう一人思い出した。
子どものころ、実家のピアノの調律をお願いした時のこと。
作業中に叫び声がして、何事かと母が駆けつけると調律師さん(若いお兄さん)はいそいそとバッグに道具を詰め込んで開けた天屋根もそのままに、ひと言「無理です」と言って帰っちゃった、という話を帰宅後母に聞かされました。
「なんで?」
「お母さんもなんで?と思ってピアノのなか覗いたら、ネズミの巣があったわー」

ちなみにネズミはいなかったそうです。
この経験を糧に、彼もその後立派な直し人になられたことと思います。

 

接着剤の乾くまでなにも出来ない時間のように

たとえば銀座に出るついでがあって、せっかくなのであそこにもあそこにも行こうなどとわくわくしつつ(手持ちのなかでは)銀座的な服を着て家を出る。
どんな順番でどこをまわってどのタイミングでお茶をして、なんてことを話し合いながら、道中見かけたよさげな店でお昼を食べる。
美味しいねえ。
全然知らなかったけれど、いいとこ見つけてラッキーだったねえ。

と、そんなときに限って、服にシミをつくってしまいます。
こういう中身の人間として何十年も生きてきているのに、いまだに。

もう帰りたい…と思いつつも済ませなければいけない用事もあるので引き返すわけにはいかず、トートバッグを胸元に抱えたりしてごまかしながら、銀座をゆく。
すれ違う人はみな背筋がしゃんと伸びている。
お店で店員さんに声をかけられ「シャツにシミのある私ごときがごめんなさい」とひるんでしまう。
休憩したベンチで隣り合ったハイファッションガイの膝には551の紙袋があって、懐かしいな、近くで催事があったのかな、でも豚まんなんて絶対シミになる食べ物だよな。

もう何を見てもシミを思い出す、この時間。
銀座で服にシミができてしまったあとのこの時間は、誰にもなんとも思われていないことや夫が右でけたけた笑っていることとは関係なく、シミとセットでやってくる。

別に銀座じゃなくてもいいんですけどね、先週末はたまたま銀座だったんですよ。
ランチはラーメンでもカレーうどんでも豚まんでもなく、タイ料理でした。
美味しかったです。
ドーバーで見たsacaiのセーター、可愛かったです。

そんな自分ではどうしようもない、通り過ぎるのを待つしかないような時間について、最近よく思いをめぐらせています。
治療後歯の痛みが消えるまでの時間。
切りすぎた前髪が伸びるまでの時間。
シミのある服で家に帰るまでの時間。
みんなに、日常的にあるこんな時間が、つつがなく、できればあっけなく、過ぎていきますように。

 

タイトルは長島有「問いのない答え」より。
まさに接着剤を乾かしているあいだに読み始めたからか、この一節が気になって気になって、先がまったく頭に入ってこなくなりました。

 

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