遥かなるエレガンス (カバーの話 その2)

先日本屋さんで見かけた某雑誌のコピーが「エレガンス、ということ。」で、伸ばしかけた右手がなぜか引っ込みました。
はて、と考えて自覚したのですが、エレガンスには苦手意識があります。むしろ苦手意識しかございません。
自分がエレガンスに程遠い人間だからでしょう。

エレガンスに程遠い。
それは昔も今も同じようで、久しぶりにあった友人に「あら?なんだかエレガントな感じになったわね」などと言われたことは一度もありません。
「相変わらず貧乏くさくて安心したわ」とはよく言われますがね。

思うにエレガンスとは品であり知性であり、またそれらに裏付けられた立ち居振る舞いの美しさでありましょう。
エレガントな人は、あらゆることがきちんとしています。きちんは前提です。
急な来客があっても笑顔でどうぞとスリッパを出し、トイレも快く貸してくれることでしょう。
私のようにちょちょちょっと待ってとは言いません。
箸もナイフ&フォークも身体の一部のように使いこなし、しかし手羽先を手づかみすることも厭わない余裕もあります。
私のように年に一度の割合で誤って箸を噛み切ったりはしません。
椅子に腰かけるときと立ち上がるときに人間性が表れる、と聞いたので凝視してみましても、静かに座り、スマートに立ちあがるのです。
椅子がガガガと音を立てることはなく、よっこらどっこいしょなどとは決して言わないのです、いえ、私も言いませんけれど。

出したらしまう。
開けたら閉める。
点けたら消す。
子どものころから言われていることが未だにままならない私には、エレガンスは遥か彼方過ぎて眩しくさえないのです。

しかし、このままではいけないと、ときどきエレガンスへの一歩を踏み出そうとはしています。
去年はせめて静かに椅子に座れるよう、ダイニングチェアに靴下を履かせてみました。
椅子の脚カバーを編んだのです。
正しい一歩かどうかは知りませんが、嬉々として取り組みました。
ところが一年たって、気づいたら椅子がまた音を立てています。
気づいてからさらに半年程たってようやく確認してみたところ、擦り切れて靴下の底がなくなり、レッグウォーマーになっていました。
いけない、エレガンスが遠のく、編みなおそう。

 

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編みなおしました。

よし、この勢いであの雑誌を買ってみよう。
そう思ってさっき本屋さんへ行ったのに、なぜかハンターハンターの最新刊だけを買って帰ってきてしまいました。

おっかしいなー。

帽子所感

今年は久しぶりに自分のニット帽を編もうと思っている。
棒針で、少し太めの糸で、浅くも深くもない普通の帽子。

 

 

以前友人に頼まれてネックウォーマーを編んだことがある。
一緒にアヴリルへ行って糸を選んでもらい(茶色の超極太と極太の毛糸)、ケーブル編み、ゴム編み、かぎ針のリング編みなどを組み合わせてトゥーマッチにモコモコなネックウォーマーができた。
喜んでもらえて、編む過程も楽しかったので、同様にいろんな編み地をはぎとじして帽子にしよう!と思って後に編んだのがこれ。

 

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左の白系が自分用、右のグレー系が夫用。

ありあわせの糸を使い、途中「何か鎧兜みたい~」「むしろ謎の建造物みたい~」と変なテンションのままウッキウキで耳カバーも付けたら夫は喜んで毎冬愛用してくれているけれど、画像を見てもわかる通り私はほとんど使っていない。
なぜなら翌年からピアスを作り始めたからで、この帽子じゃピアスができないから。
耳カバー付けた私のバカ!

とほほ。誰かもらってくれませんかね。

そんなわけで今年は、ピアスも併用できる、鎧兜でも謎の建造物でもない帽子を編もうと思っているのです。
ついでに帽子とピアスのバランスについて考えてみようとも。

 

 

それはそうと夫は帽子好きだ。
キャスケットやマリンキャップ、中折れ帽に山高帽など結構な数の帽子を持っている。
持っているけれどまた買う。
出先でも買うしzozoでも買う。
似合うので、私も「いいじゃん」と言ってしまう。
むしろあっぱれと思ってしまう。
次はロシアのアレを買えばいいのに。

 

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夏に京都へ行ったとき、骨董品屋さんで夫が激安で買ったボーラーハット。
ツバのパイピングに使われているリボンが一部剥がれていて(そしてどんどん剥がれてきて)、何とかすると約束していたのでようやく直した。

 

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似たようなリボンを買い、縫い留める技術がないので横着してボンドでくっつけるという暴挙に出たが、まあこれなら使えるか、というくらいにはなった。

ボンドが乾いたので記念にちょっと被ってみる。
すごく、何というか、似合いませんでした。

私に似合う、ニット帽を編もうと思います。

猫と占いと私

私の前世は猫だそうです。

大学時代の学祭で、パソコン部だったか情報処理研究会だったかの展示で前世占いをやっていて、パソコンにぴこぴこっと入力したらレシートのような紙がぴろぴろっと出てきて前世について書いてある、それが猫でした。
以下、覚えている限り正確に記します。

「あなたの前世は雌猫です。飼い主は30代男性のサラリーマンで、あなたをとても可愛がっていました。
彼は仕事を終えて帰ってくると、冷蔵庫を開けてビールとミルクを出します。
まずあなたにミルクを与え、あなたがミルクを舐める様子を眺めながらビールを飲むのが彼の日課でした。
あなたも飼い主のことが大好きで毎日を幸せに過ごしますが、彼は好きな女性の名前であなたを呼んでいました。」

いや、これかなり正確に書けたんじゃないだろうか。
自分でもびっくり。

数人で一緒に試したのですが、それぞれ違っていて、たとえば皇帝の寵愛を受けた美男子音楽家とか、馬に蹴られて死ぬ悪徳牧師とか、どれもパンチがあってみんなで回し読みしてげらげら笑いました。

しかし。
私だけ人間じゃなかったり並行世界のような時代設定もどうかと思いますが、やたらリアリティのある描写と笑い飛ばすには切実に過ぎるその幕の引き方、しかも友人の一人が「何かわかるわー。ぽいわー」かなんか(多分ノリで)言ったりしたせいで、いまもってこうしてときどき思い出してしまいます。
それ以前も以降今までも、○○の館や●●の母に見てもらったことはなく、前世は猫、というのがほぼ唯一の私に対する占術界からの啓示です。

猫は好きですし、実家ではずっと猫を飼っていましたし、上京してからは猫の集会に招かれることが何度かありました、多分。
だからあの占いを信じているわけではないにしても、「前世は何だったと思う?」と問われれば(意外なことに結構問われる)猫だ、と答えています。

 

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ところで件の占いが正しいと仮定して、そしてそれをうっかり知ってしまった身として、こういう前世であったということは現世にどう生かせば正解なのだろう。
知らなくていいことは知らない限り幸せだ、という教訓を得ることだろうか。
人によって与えられる幸せは所詮かりそめという悟りの上に人生を構築すべし、ということだろうか。
はたまた毎日ビールを飲む男にはご用心?まさか。
偽の恋人役を全うしたことで、徳は積めたのかしら…

実際はそんなことを頭に入れて「知ってしまった身として」生活してきたわけではまるでないのですが、思い出したついでに前世占いの意義について考えたり考えなかったり。

 

とにかくいちばん言いたいのは、あの占いの文言を書いた人は入るサークルを間違えたな、ということです。

言い訳の準備

 

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着なくなった服が捨てられません。

捨てられないのは服に限ったことではありませんが、とっちらかるので以下服に限って話を進めます。

化繊ものは掃除に使ったりしてわりとポイポイいけますが、綿、麻、毛まわりがとにかく溜まっていきます。
いつかまた着るかもと思っているわけではないし、「この服を着てあの方とあそこへ行ったわねうふふ」みたいなことでもありません。
「そのうち何かに使うだろう」と思って溜め込むのです。
実際使っているので、誰かに(というか自分に)とがめられても言い訳の準備はあるのですが。

こうなったきっかけはよく覚えていて、15年ほど前に雑誌で見たZakka・吉村さんのはぎれで作る鍋つかみです。
自分でも作りたいと思い、はぎれやタオルを集めても素材が足らず、「これはまあ、もう着ないな」というシャツを切って使った。
それが始まりです。

鍋つかみは、かなりたくさん作りました。
でも素材化した服は全然減らない。使うのはほんの少しですから。
せっかくなので同じ手法でトートバッグもいくつか作りました。
すると丈夫なバッグも欲しくなって、チノパンの足部分を使ったり。
スカートでエプロンも。
セーターは繋ぎ合わせてマフラーにしたり、トイレの便座カバー…の話は、以前書きましたね。

そんなふうに、あらゆる類の着ない服が時間をかけてはぎれの山と化し、果ては実家から持ち帰ったりもして、作業部屋の押入れはまあ、すごいことになっているのです。

 

 

「この服を素材にしよう」と決めたとき、まずやるべきはボタンやカン類を取り外すこと。
続いてリッパーで縫い目を切り、解体していきます。
ですがお察しの通り圧倒的な面倒くささ、そして糸くずゴミが想像を絶する量で生じます。
あるとき、何枚かの服を解体して出た糸くずを丸めてボールを作り、「これもとっておけば何かになるんじゃないか」と考えたところでやっと我に返ってボールをゴミ箱にロングスロー(当然外す)。
それからは縫い目に沿ってただ切り分けることにしています。
でもこの「解体作業」が、裁縫に疎い私には何かと勉強になりました。

たとえばジーンズの脇縫いなどでよく見る「折伏せ縫いのダブルステッチ」。
ぬいしろでぬいしろをくるむことで裏側にも布端が出ない、スマートかつとても丈夫な端処理です。

解体時には、通常1本の縫い目をほどけば済む作業が3倍になるため独り言の品の悪さに拍車がかかりますが、ふと、この縫い方は使える!と思ったのです。
裏も綺麗なので、半端なはぎれ(元・シャツや何やかやだったもの)を繋げていくには好都合だと。

で、作ったのが冒頭のお弁当包み。
まだ途中のつもりだったのでぐるりは切りっぱなしですが、もうそのまま何年も使っています。

 

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そして溜まりに溜まった白系素材を集めて作ったクロス。100㎝×200㎝の大作で、最初はテーブルクロスとして、最近は販売会のときなどに使っています。

 

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そして先月作った、tagotto用の風呂敷。
何となく思い付きで手縫いでやってみました。
楽しかったです。

 

 

折伏せ縫いを覚えたからといって途端にはぎれの在庫が片付くわけもなく、今日も押入れはすごいことになったままではあるのですが、以上が、溜め込む自分を反省したくなったときに読み返す用の言い訳でした。

2年経ちました

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ある友人は、tagottoを誰かに紹介してくれるときに「アライグマみたいに糸を巻く」と言う。
ちょっと何を言っているのかわからないけれど、「アライグマが洗うようにtagottoは糸を巻く」ということらしい。
やっぱりよくわからないけれど、それはきっと私がアライグマに詳しくないからだろう。
ともかく友人のその言い回しを耳にすること数回、わからないなりに何となくアライグマに親近感を覚え始め、ついに先日いくつか動画を見た。

結論:アライグマは思ったほど洗っていませんでした。可愛かったけど。

それでも、「アライグマが洗うようにtagottoは糸を巻く」というフレーズが気に入ってしまったので、機会があれば何かに使いたいと思います。
友人には事後報告にしよう。

 

 

2年前、ひょんなことから始めたアクセサリー作り。
2年、まだたったそれだけで、長かったとかあっという間だったという感慨を持って振り返るほどのこともないのですが、改めて最近、なぜアクセサリーを作っているのかと考えたりします。

思い返してみれば最初に就いた販売職時代から、女性の笑顔は私のテーマでした。
サプリメントや精油、化粧品などを主に扱っていたため女性のお客様が主であり、そして「家族のために」何かを探していらっしゃる方がとても多かった。
疲れ気味のご主人のためにBコンプレックスを、肌の弱い娘さんのためにアルコールフリーの化粧水を、冷え性のお母様のためにハト麦茶を、といった具合に。
タッチアップやハンドマッサージをしながら「でもご自分のこともお大事に」と言うと泣きだしてしまわれる方も少なからずいらっしゃって、そんな女性にどう笑顔で帰っていただくか、が自分の命題になっていました。

きっとそれは今も変わらないのだと思います。

さまざまな環境で、たとえば自分のことを後回しにしていてもいなくても、愚痴を言う場があってもなくても、5分前まで泣いていてもいなくても、きっと女の人は小さなことで笑える強さを持っている。
その笑顔のために、これからも糸を巻き、アクセサリーを作りたいと思っています。

2年間、節々でたくさんの方に助けていただきました。
おそらく自覚している以上にめんどうな人間ですから、その迂遠に根気よく付き合ってくれている人、友人、家族、そして更新頻度が右肩下がりのブログを今なお読んでくださっている方にも、

本当にありがとうございます。

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いつも使っている道具にも。